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『青銅の悲劇 瀕死の王』 笠井 潔

矢吹駆シリーズの、いわば日本編シリーズ、第一作です。

青銅の悲劇 瀕死の王 (講談社ノベルス)

青銅の悲劇 瀕死の王 (講談社ノベルス)

  • 作者: 笠井 潔
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/07/07
  • メディア: 新書


『バイバイ、エンジェル』から続くフランスを舞台にしたシリーズ(いまのところ第6作『吸血鬼と精神分析』まで刊行)のほぼ10年後、日本を舞台にした新しいシリーズで、探偵役はナディア・モガールが務めます。
ハードカバーで700ページ以上ある大作。
事件は、トリカブトを用いた毒殺未遂がメインで、その後に殺人事件が一件発生しますが、謎ときの中心は毒殺方法の解明になります。
この毒殺方法、3本の日本酒の瓶と2本の徳利をめぐる推理が、これでもかこれでもかとばかりに延々と続きます。
推理はミステリー的な面白みのある盲点を突く類いのものではなく、実直なパターン分けを繰り返すもので、カタルシスはまったくありません。読んでいて非常に疲れます。
大家の実験的な作品としてやっと成立(出版)されたと考えるべきで、新人が使える手法ではありません。

謎解き小説としては、あまり面白くはありませんでしたが、興味深かったのは「終章」。
探偵について述べられた部分でした。

ナディアは、関係者を集めて推理を展開し、真犯人を指摘、真犯人が告白したあとも、既存の手がかりからは、「厳密には判断不能、決定不能」と言う。
「鎌をかけたのか」と、ただすワトソン役に、ナディアは、

「王妃の恋文を発見してオーギュスト・デュパンが捲したてたのと変わらない。いってみれば詐欺師の口上まがいでしょうね。(略)わたしたちは決定不能という罠から逃れることができない。推理が厳密であれば唯一の真実に到達できると信じていられるのは、前世紀の遺物のような人だけね。(略)この時代には名探偵は存在しえないのです」
「歴代の名探偵は、一人の例外もなく厳密な推論と称して詐欺師の口上まがいの出鱈目を唱えてきたにすぎない」

と、うそぶきます。

少し前に読んだ青崎有吾『体育館の殺人』の名探偵も同趣旨のことを述べています。

名探偵にとって「推理」は犯人から自白を引き出すための道具にすぎない。戦前の刑事や江戸時代の与力同心が用いた拷問の代替物。
関係者を集め、心理的プレッシャーをかけ、さも「証明」するかのごとく理詰めで真犯人を指摘する。犯人は、告白するなり、自殺するなり、敗北を認める。

思い出すのは、エラリー・クイーンの『フランス白粉の秘密』のラストです。
エラリーは、
「完全に理にかなっていた唯一の人物」と言って真犯人に迫ります。
この直後、犯人は自殺してしまうわけですが、父のリチャード警視は、
「法的な証拠はなく-はったりが効いたわけだ!」と本音を漏らす。

しかしながら、『青銅の悲劇』は評論ではなく、小説。
名探偵の神聖性が無残にも剥奪され、単なる「詐欺師」にまでおとしめられているのは、演出の意味もあるでしょう。
フランス編で名探偵として活躍した矢吹駆に対して、ナディア・モガールはなんらかの理由で対決するために日本に来ています。
『青銅の悲劇』の冒頭のエピグラフは、
「わたしは日本に帰ってきた、矢吹駆を殺すために-N・Mの日記から」
ナディアの眼には、名探偵=矢吹駆がすでに神聖なものとは写っていないのでしょう。

日本編「悲劇シリーズ」はこのあと、「白銀の悲劇」「黄金の悲劇」と予告されています。
どうか、推理に淫した長すぎる長編にはしないでほしいものです。
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